不妊の女

「喜び歌え、子を産まなかった不妊の女よ。」 (イザヤ書54章1節)
 私たち夫婦は晩婚でした。私が40代後半、妻は40代前半での結婚でしたが、結婚して数か月で妊娠が分かった時は「けっこう簡単に妊娠するものだな」と思いつつ素直に嬉しかったのを覚えています。「そうか私でも父になれるのか・・・」と初めて産婦人科に付き添いで行きました。ふつうの病院は沈痛な思いで行くものだけど「産婦人科って幸せいっぱいだな」などと思いました。妊娠安定期になるまでは人に言いたくても言えませんでしたが、次の受診で予定日が教えてもらえる、安定期になるから人にも公表できると、楽しみにして行った日の診断で「胎児の心臓が止まっています」と言われ手術することになりました。嬉しい知らせをする準備をし、喜びを人に伝えられると思った矢先でまさかの流産。手術が終わって院内では我慢していた妻が、出口を出ると声をあげて泣いて、その妻を支えて帰った日のことは忘れられません。「産婦人科は幸せでいっぱいだ」などというのは独りよがりな見方でした。それからしばらく、「私、妊娠は難しいと思う」と妻が口にしていた、結婚1年目の春のことでした。 「喜び歌え、子を産まなかった不妊の女よ。」預言者イザヤが伝えたのは、バビロンで捕囚の苦しみの中にあったイスラエルの民です。捕囚は、苦難と恥辱に満ちた心に傷を負う生活でした。その苦しみをイザヤは「不妊の女」と表現したのです。聖書には不妊の女が多く登場しますが、聖書の時代、女は子を持つことによって神の祝福を実感し、社会の中での生きるべき場所をもつことができました。しかし、不妊は女にとって、夫に捨てられる原因にもなりえました。それが当たり前の時代です。今のように「仕事に生きていく」や「子どもは持たない」などといった選択肢はありません。苦しみと恥辱を打開することは人間には不可能、ここに不妊の女性の悲しみがありました。 神さまのアブラハムに対する大いなる祝福の約束には、「不妊の女」であった90歳の妻サライへの約束が含まれていました。(創世記11:30)主なる神さまはそのような神ですし、その神による「喜び歌え、子を産まなかった不妊の女よ。」の言葉は、自分の力ではとうてい立ち上がることのできない現実を前にした人間に向けて語られた、恵みのメッセージなのです。
《祈り》隠れています神よ、この理不尽、この不条理は、どうして私に降りかかるのでしょうか。けれどもあなたは私の父、私はあなたの子ですから恐れません。私の願いは得られませんが、あなたが望んでおられることを、私に成してください。
牧師 和田一郎
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