正しい者はいない
「正しい者はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を探し求める者はいない。」 (ローマの信徒への手紙3章10−11節)
鎌倉時代というのは、武士が政権を初めて握ったことで、それまでの価値観がひっくり返されたような時代でした。その時代に無名の人として生きた親鸞という僧侶は、闇を内に抱える「罪人」としての人間に目を注ぎ続け見捨てない覚悟がありました。それを一言でいうと「悪人こそ救われる」ということです。では、悪をしたほうがいいのでしょうか?善を行う必要もないのでしょうか?善いことをする意欲がなくなってしまったり、平気で悪いことをしたりするようになってしまうでしょう。 「悪人」は、悪をすることによって、苦しい結果を受けて苦しみます。ですから、「悪人」といえば苦しみ悩んでいる人のことです。そういう苦しんでいる者にこそ救いがあると教えていたのが親鸞でした。「悪をかかえている者が悪人なのではない。われら生きとし生ける者は、すべて心に闇を抱えて生きている。善だの悪だのと、簡単に区別できるものではない」(五木寛之著『親鸞』)。
使徒パウロはユダヤ人もギリシア人もみな罪人であると言います。正しい者は父なる神と、独り子イエス・キリストだけです。人間はみな罪人です。だから私たちはキリストの贖いを受け、救われる必要があります。救われるためにイエスさまに向き合って自分の罪の姿を認める必要があるのです。 私たち人間は、日々罪を重ねてしまう存在です。しかし、罪を犯すから「罪人」なのではありません。「罪人」だから罪を犯すのです。パウロは自分自身を正しい者だと誇って生きていました。そしてキリスト者撲滅のリーダーとして迫害する人でした。そのパウロが回心したのは、この自分は義人などではない、いや自分だけではないキリストの救いに与っていない者が、正しい者とされることはない。なぜなら、そもそも正しい者はいない。一人もいないのだと知ったのです。自らの罪を明らかにされたことで、イエス・キリストに唯一の救いがあることを見出すことができたのです。
《祈り》主よ、人は律法によっては救われませんでした。ただこの自分が罪人である自覚が生まれました。救いはイエスさまから来ます。それがクリスマスの喜びです。有難うございます。
牧師 和田一郎
ご感想は下まで(スマホ・パソコンの方向けです) forms.gle/EkE9N8gDaJQ7ee2L9
発行者名 高座教会 www.koza-church.jp/
鎌倉時代というのは、武士が政権を初めて握ったことで、それまでの価値観がひっくり返されたような時代でした。その時代に無名の人として生きた親鸞という僧侶は、闇を内に抱える「罪人」としての人間に目を注ぎ続け見捨てない覚悟がありました。それを一言でいうと「悪人こそ救われる」ということです。では、悪をしたほうがいいのでしょうか?善を行う必要もないのでしょうか?善いことをする意欲がなくなってしまったり、平気で悪いことをしたりするようになってしまうでしょう。 「悪人」は、悪をすることによって、苦しい結果を受けて苦しみます。ですから、「悪人」といえば苦しみ悩んでいる人のことです。そういう苦しんでいる者にこそ救いがあると教えていたのが親鸞でした。「悪をかかえている者が悪人なのではない。われら生きとし生ける者は、すべて心に闇を抱えて生きている。善だの悪だのと、簡単に区別できるものではない」(五木寛之著『親鸞』)。
使徒パウロはユダヤ人もギリシア人もみな罪人であると言います。正しい者は父なる神と、独り子イエス・キリストだけです。人間はみな罪人です。だから私たちはキリストの贖いを受け、救われる必要があります。救われるためにイエスさまに向き合って自分の罪の姿を認める必要があるのです。 私たち人間は、日々罪を重ねてしまう存在です。しかし、罪を犯すから「罪人」なのではありません。「罪人」だから罪を犯すのです。パウロは自分自身を正しい者だと誇って生きていました。そしてキリスト者撲滅のリーダーとして迫害する人でした。そのパウロが回心したのは、この自分は義人などではない、いや自分だけではないキリストの救いに与っていない者が、正しい者とされることはない。なぜなら、そもそも正しい者はいない。一人もいないのだと知ったのです。自らの罪を明らかにされたことで、イエス・キリストに唯一の救いがあることを見出すことができたのです。
《祈り》主よ、人は律法によっては救われませんでした。ただこの自分が罪人である自覚が生まれました。救いはイエスさまから来ます。それがクリスマスの喜びです。有難うございます。
牧師 和田一郎
ご感想は下まで(スマホ・パソコンの方向けです) forms.gle/EkE9N8gDaJQ7ee2L9
発行者名 高座教会 www.koza-church.jp/