人は誰でも知らずして何かの役に立っている。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(新改訳2017) (イザヤ書43章4節)
 「サザエさん」の話のひとコマ。新幹線ひかり号の席で読書をしていた波平が、途中トイレに立ちました。入れ替わりで食堂車から戻った新婚カップルが入ってきます。ところが二人は自分の席が分からなくなったようです。そこへトイレからもどった波平が、自分の席に座ると、「ああ、あそこだ」と二人はにっこり笑いました。彼らが行く先は、背もたれから出た波平の禿げ頭が見える後ろの席です。この新婚カップルは波平の頭を目印にしていたのです。人は誰でも知らずして何かの役に立っている。無意味な存在はどこにもないのですね。 イザヤ書で主なる神さまは、私たち人間を「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」とはっきり宣言されました。しかし、世間的には目立った働きをしていない人、自分はふがいないと思っている人にとっては、自分のどこに「高価」といえるものを見いだせるのだろうと疑問に思えるのです。しかし、この言葉は「わたしの目には」と言っています。「神が見て」ということです。神さまが見ているのは何かというと、人間を造られた時に「非常に良かった」と口にされた、その時と同じ「目」です。その時の人間は、それはそれは麗しく、正義に満ち、神の愛に似せられた素晴らしい存在でした。今の人間は罪の性質が入ってしまいましたが、神の愛は変わることがありません。 人間は、自己評価する時に「人の役に立った」「社会から評価された」ことに目を向けがちですが、神さまの目は「存在」を見ているのです。たとえば私たちはみな年老いて社会的な働きは減っていきますが、だからと言って価値が下がっていくわけではありません。自分が置かれた生活の場で、神さまとの関係を喜び、生かされていることを感謝する。そのような生き方が、人間本来の幸せな姿です。神さまの目に無意味な存在はどこにもありません。
《祈り》神さま、あなたはご自分を「わたしはあるというものである」と、その偉大な存在を明らかにしてくださいました。そして、私のことも高価で尊い存在として見てくださっています。神さまの前にいる私は、ただ自分があるだけでいいのだと思えるのです。これ以上の喜びはありません。
牧師 和田一郎
ご感想は下まで(スマホ・パソコンの方向けです) forms.gle/EkE9N8gDaJQ7ee2L9
発行者名 高座教会 www.koza-church.jp/