召された人を自分の生活で生かす
「イエスは彼らが見ている前で天に上げられ、雲に覆われて見えなくなった。イエスが昇って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い衣を着た二人の人がそばに立って、言った。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。』」 (使徒言行録1章10-11節)
私は59歳になりました。34年前に天に召された母の歳と同じ年齢になりました。「母はこの歳で人生を閉じたのか・・・。」 母にはその後の熟年期で何かもっとやりたかったこと、希望があったのではないか?と思うことがあります。しかし、それは分かりません。ところが私たち人間は、分からないことを分からないままにしておくことが苦手です。だから私は母がこの世の人生を終えようとする日々の中で、何を思い考えていたのだろうかと考えてしまっていました。「この歳になった時、母は何を考えていたのだろう」「母は幸せだったのだろうか?」と考えることがあります。 私自身は、とっさに怒ることもあるし、驚くほど優しく振舞えることもあって、どっちが本当の私なのかと聞かれても、分からないのです。自分自身のことさえ分からないのに、今はいない人の考えていたことを気にしているのです。 では、召された人のことを考えることは無駄なことなのでしょうか。過去の人のことは早く忘れて、自分の将来のことを考えなさいと教える人もいます。しかし、私はそういうふうには考えたくありませんでした。大切な人の心を自分の生活の中で生かすことで、召された人は今も生きることができると考えています。母の優しい心、父のもつ自由と自然とスポーツを愛する心、そして両親の「信仰」を今の生活の中で生かそうと思う時、天国の両親が身近な存在となって、今の自分を支えてくれていると思えるのです。それは嬉しいことです。信仰によって与えられた恵み。天にある者も、地にある者も、共に「天を見上げて立って」神を褒め称えることができるのです。
《祈り》イエスさま、あなたは天に上げられ姿は見えなくなりましたが、今も生きておられます。私たちと共に生きてくださいます。同じようにあなたの身元に召された人も、私の心の中で生き続けます。それがキリストにあって一つとされた、神の家族の恵みです。
牧師 和田一郎
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発行者名 高座教会 www.koza-church.jp/
私は59歳になりました。34年前に天に召された母の歳と同じ年齢になりました。「母はこの歳で人生を閉じたのか・・・。」 母にはその後の熟年期で何かもっとやりたかったこと、希望があったのではないか?と思うことがあります。しかし、それは分かりません。ところが私たち人間は、分からないことを分からないままにしておくことが苦手です。だから私は母がこの世の人生を終えようとする日々の中で、何を思い考えていたのだろうかと考えてしまっていました。「この歳になった時、母は何を考えていたのだろう」「母は幸せだったのだろうか?」と考えることがあります。 私自身は、とっさに怒ることもあるし、驚くほど優しく振舞えることもあって、どっちが本当の私なのかと聞かれても、分からないのです。自分自身のことさえ分からないのに、今はいない人の考えていたことを気にしているのです。 では、召された人のことを考えることは無駄なことなのでしょうか。過去の人のことは早く忘れて、自分の将来のことを考えなさいと教える人もいます。しかし、私はそういうふうには考えたくありませんでした。大切な人の心を自分の生活の中で生かすことで、召された人は今も生きることができると考えています。母の優しい心、父のもつ自由と自然とスポーツを愛する心、そして両親の「信仰」を今の生活の中で生かそうと思う時、天国の両親が身近な存在となって、今の自分を支えてくれていると思えるのです。それは嬉しいことです。信仰によって与えられた恵み。天にある者も、地にある者も、共に「天を見上げて立って」神を褒め称えることができるのです。
《祈り》イエスさま、あなたは天に上げられ姿は見えなくなりましたが、今も生きておられます。私たちと共に生きてくださいます。同じようにあなたの身元に召された人も、私の心の中で生き続けます。それがキリストにあって一つとされた、神の家族の恵みです。
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