ただ信仰のみ
「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」。 (ローマの信徒への手紙3章28節)
ユダヤ人は、神さまから「義」とされる(救われる)ためにユダヤ人である必要があり、そのしるしとして「割礼」(男性の包皮を切り取ること)必要だと考えていました。今のキリスト教会でいう「洗礼」に当たるのが割礼だったのです。 しかし、イエスさまが十字架の犠牲により死の苦しみを受けてくださったので、人は痛みのともなう割礼を行う必要はなくなりました。十字架の恵みによって、割礼という行いは不要となり、主イエスを信じる信仰によって洗礼を受ければ、神の民となる時代になったのです。旧約時代は、ユダヤ人が神の民でしたが、新約時代はクリスチャンこそ神の民です。ところが、キリスト教会ができてまだ間もない未熟なクリスチャンの中には、神に「義」とされるためには、信仰だけではなく、割礼を受けてユダヤ人になる必要があると主張するユダヤ人が多くいたのです。それを使徒パウロは否定しました。「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」とローマの信徒にむけて書いたのです。 このローマ書の箇所を次のように翻訳した人がいます。 「人が神に義と認められるのは、律法の行いなんかによるのではない!それは、ただ信仰のみによるのだ!」(『五つのソラから』吉田隆著) 翻訳したのはマルチン・ルターです。「ただ信仰のみ」という言葉は、宗教改革の時にルターが翻訳した『ドイツ語新約聖書』の中に出てきた表現です。ルターは、当時使われていたラテン語新約聖書からではなく、原典であるギリシャ語聖書から翻訳したのです。原典のギリシャ語から翻訳されたのは翻訳史において画期的な出来事でした。ルターはこの書を、もしパウロがドイツ人だったら、こう言うはずだという思いを込めて翻訳をしたのです。 この「信仰のみ」という訳は出版直後に議論を巻き起こしましたが、ルターは「人々の心に生きた言葉で福音を届けようとした」と言うのです。こうして、「割礼を受ける」とか「律法を守る」といった行いによるのではなく、「信仰によって義とされる」は、私たちプロテスタント教会の中心的な意味をもつ教理となっています。
《祈り》神さま、あなたは寛大な方。私たち人間に完璧に生きている人はいません。行いによって正しさを証明することはできません。それでもあなたは、イエスさまを主と信じる信仰だけで、私を「義」としてくださり、「良し」としてくださいます。私ができることはただ感謝することです。
牧師 和田一郎
ご感想は下まで(スマホ・パソコンの方向けです) forms.gle/EkE9N8gDaJQ7ee2L9
発行者名 高座教会 www.koza-church.jp/
ユダヤ人は、神さまから「義」とされる(救われる)ためにユダヤ人である必要があり、そのしるしとして「割礼」(男性の包皮を切り取ること)必要だと考えていました。今のキリスト教会でいう「洗礼」に当たるのが割礼だったのです。 しかし、イエスさまが十字架の犠牲により死の苦しみを受けてくださったので、人は痛みのともなう割礼を行う必要はなくなりました。十字架の恵みによって、割礼という行いは不要となり、主イエスを信じる信仰によって洗礼を受ければ、神の民となる時代になったのです。旧約時代は、ユダヤ人が神の民でしたが、新約時代はクリスチャンこそ神の民です。ところが、キリスト教会ができてまだ間もない未熟なクリスチャンの中には、神に「義」とされるためには、信仰だけではなく、割礼を受けてユダヤ人になる必要があると主張するユダヤ人が多くいたのです。それを使徒パウロは否定しました。「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」とローマの信徒にむけて書いたのです。 このローマ書の箇所を次のように翻訳した人がいます。 「人が神に義と認められるのは、律法の行いなんかによるのではない!それは、ただ信仰のみによるのだ!」(『五つのソラから』吉田隆著) 翻訳したのはマルチン・ルターです。「ただ信仰のみ」という言葉は、宗教改革の時にルターが翻訳した『ドイツ語新約聖書』の中に出てきた表現です。ルターは、当時使われていたラテン語新約聖書からではなく、原典であるギリシャ語聖書から翻訳したのです。原典のギリシャ語から翻訳されたのは翻訳史において画期的な出来事でした。ルターはこの書を、もしパウロがドイツ人だったら、こう言うはずだという思いを込めて翻訳をしたのです。 この「信仰のみ」という訳は出版直後に議論を巻き起こしましたが、ルターは「人々の心に生きた言葉で福音を届けようとした」と言うのです。こうして、「割礼を受ける」とか「律法を守る」といった行いによるのではなく、「信仰によって義とされる」は、私たちプロテスタント教会の中心的な意味をもつ教理となっています。
《祈り》神さま、あなたは寛大な方。私たち人間に完璧に生きている人はいません。行いによって正しさを証明することはできません。それでもあなたは、イエスさまを主と信じる信仰だけで、私を「義」としてくださり、「良し」としてくださいます。私ができることはただ感謝することです。
牧師 和田一郎
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