愛がなければ
「たとえ私が、預言する力を持ち、あらゆる秘義とあらゆる知識に通じていても、また、山を移すほどの信仰を持っていても、愛がなければ、無に等しい。」 (コリントの信徒への手紙一13章2節)
使徒パウロは、信仰や奉仕には「愛」がなければ意味がないと断言します。神を愛し、人を愛することが、信仰生活のすべての土台だというのです。 クリスチャン建築家であったヴォーリズは、生涯多くの人を支えました。彼にはお気に入りの仕立屋がいましたが、その人は酒が好きで、わずかな収入があればすぐに酒代にしてしまう人でした。人柄も腕も良い。しかし酒癖がどうにもならない。ヴォーリズは心配して何とか助けたいと思っていました。 ある日、その仕立屋が預かった生地を売ってしまったことが発覚し、裁判沙汰になります。ヴォーリズは弁護人になりました。ふつう弁護人というのは依頼人を守るために、無罪に近づけるように働きます。ところがヴォーリズは「この人は人柄も良く、技術も素晴らしい。しかし酒だけはどうにもなりません。酒を断つためにも、しばらく刑務所に入れて欲しいのです」。裁判官は「こんな弁護は初めてだ」といい、判決後、仕立屋に諭すように言いました。「あなたは愛のある弁護をされたのです。あなたの将来を思っているからこその弁護だったのです」と。 ヴォーリズは、目先の「助け」にこだわらなかったのです。もし無罪に近づけることができたら、ヴォーリズの知恵と力が評判となったでしょう。しかし、それでは本人の人生を根本的に回復させることにはならないのです。愛とは、ただ相手が喜ぶ言葉を言うことではありません。時には厳しさを伴う選択をする事でもあります。 聖書は「愛がなければ、無に等しい」と語ります。どれほど知恵があり、人を救う力があっても、そこに愛がなければ虚しく終わるのです。
《祈り》神さま、私は正しく生きようと努めてきました。人にも誠意を尽くしているつもりです。しかし、私は自分に愛が足りなかったことを示されました。目先の助けや自己満足ではなく、隣人にとって何が真の幸いか? 祈る心を与えてください。
牧師 和田一郎
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発行者名 高座教会 www.koza-church.jp/
使徒パウロは、信仰や奉仕には「愛」がなければ意味がないと断言します。神を愛し、人を愛することが、信仰生活のすべての土台だというのです。 クリスチャン建築家であったヴォーリズは、生涯多くの人を支えました。彼にはお気に入りの仕立屋がいましたが、その人は酒が好きで、わずかな収入があればすぐに酒代にしてしまう人でした。人柄も腕も良い。しかし酒癖がどうにもならない。ヴォーリズは心配して何とか助けたいと思っていました。 ある日、その仕立屋が預かった生地を売ってしまったことが発覚し、裁判沙汰になります。ヴォーリズは弁護人になりました。ふつう弁護人というのは依頼人を守るために、無罪に近づけるように働きます。ところがヴォーリズは「この人は人柄も良く、技術も素晴らしい。しかし酒だけはどうにもなりません。酒を断つためにも、しばらく刑務所に入れて欲しいのです」。裁判官は「こんな弁護は初めてだ」といい、判決後、仕立屋に諭すように言いました。「あなたは愛のある弁護をされたのです。あなたの将来を思っているからこその弁護だったのです」と。 ヴォーリズは、目先の「助け」にこだわらなかったのです。もし無罪に近づけることができたら、ヴォーリズの知恵と力が評判となったでしょう。しかし、それでは本人の人生を根本的に回復させることにはならないのです。愛とは、ただ相手が喜ぶ言葉を言うことではありません。時には厳しさを伴う選択をする事でもあります。 聖書は「愛がなければ、無に等しい」と語ります。どれほど知恵があり、人を救う力があっても、そこに愛がなければ虚しく終わるのです。
《祈り》神さま、私は正しく生きようと努めてきました。人にも誠意を尽くしているつもりです。しかし、私は自分に愛が足りなかったことを示されました。目先の助けや自己満足ではなく、隣人にとって何が真の幸いか? 祈る心を与えてください。
牧師 和田一郎
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