そうか私は幸せだったのか!

「私たちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができない・・・。食べる物と着る物があれば、私たちはそれで満足すべきです。」 (テモテへの手紙一 6章7-8節)
 人は生まれるとき、何も持たずにこの世界にやってきます。そして、どれほど多くのものを手入れても、世を去るときには何ひとつ持っていくことができません。聖書は、その事実を思い起こさせます。人生における「本当の富」は、外側の財産や環境ではなく、心の中にある感謝と希望にあるのだと。 ある村にたいへん貧しい男がいました。狭くて汚いあばら屋に妻と四人の子どもと暮らし、子どもは泣き、妻は小言が多く、男は不満でいっぱいでした。「こんな生活にはもう耐えられない」と、彼は村長に泣きつきました。村長は不思議な助言をします。「ヤギを家に入れなさい」。男が言われた通りにすると家の中は大混乱。さらに村長は「ニワトリを入れなさい」さらに次の日は「牛も」と言います。狭い家は足の踏み場もなく、泣き声と鳴き声、妻の悲鳴に家畜の糞だらけで男は気が狂いそうになりました。とうとう男は村長に「私に恨みでもあるのですか!」と叫びます。 すると村長は静かに「では、動物を外に戻しなさい」。男はすべてを外に出し、翌日村長のもとへ来ました。そして満面の笑みでこう言ったのです。「村長、私は今まで気がつきませんでした。私の家は広かったのですね。四人の子どもたちはいい子ですし、妻も優しい。なんて幸せだったんでしょう」家は以前と寸分変わっていません。しかし男の心は変わりました。状況が改善したのではなく視点が変わったのです。 私たちは「もっと」「まだ足りない」と望み続ける性質を持っています。しかも一つの欲が満たされれば、また次の欲が生まれます。しかし信仰とは、今あるものに感謝して、明日に希望をもつことです。今自分が生きていて、食べる物があり、着る物があり、共に暮らす家族がいるなら、実はそれは大きな恵みなのだと、視点を変えることで気づくのです。村長は、幸福を与えたのではなく、すでに持っている恵みに目を開けさせただけです。私たちは今、既にどれほど多くの恵みを持っていることに気づいているでしょうか?
《祈り》恵み深い主よ、いま与えられている日々の恵みに気づかせてください。足りないものではなく、すでに与えられている祝福に感謝し、共に生きる人の存在を、かけがえのない宝として受け取ることができますように。満ち足りた心で歩ませてください。
牧師 和田一郎
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