“それぞれ”が生み出すジレンマ

「イスラエルの子らは、そのとき、そこからそれぞれ自分の部族と氏族のもとに戻り、そこからそれぞれ自分の相続地に出て行った。そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」(新改訳2017) (士師記21章24-25節)
 人それぞれ」という言葉をよく聞きます。相手を尊重する便利な言葉ですが、同時にどこか不安も残ります。社会学では、個人が「それぞれ」を優先して行動した結果、社会全体が悪くなる現象を「社会的ジレンマ」と呼ぶそうです。 たとえば、武器を持つかどうかを各自に任せる社会では、身を守るため多くの人が武器を持つようになり、かえって治安は悪くなります。選択の自由を認める積み重ねが、安心を失わせてしまうのです。また、自由は必ずしも平等を生みません。学校以外の時間の使い方が「人それぞれ」であるほど、家庭環境によって学力差が広がり、その後の収入の格差が広がることにつながっています。自由は結果の責任を個人に押し返し、格差を生むこともあるのです。 聖書はこの問題について語っています。士師の時代、「それぞれが自分の目に正しいことを行った」とき、イスラエルの社会には暴力と偶像礼拝が広がり、共同体は崩れていきました。人々が悪人だったからではありません。各自が「自分なりの正しさ」に従った結果でした。聖書のいう「罪」とは、悪事そのものより、神ではなく自分を基準にして生きることです。人間の正しさは一致しないため、「人それぞれ」だけでは神の国を保てません。 神さまのまなざしを基準にするとき、「それぞれ」は競争ではなく配慮へと変わります。自分の正しさに固執する社会では不安が広がりますが、神の正しさに委ねるとき、人は互いに安心して生きることができるのではないでしょうか。
《祈り》神さま。私たちはそれぞれに正しいと思う道を選び、互いを遠ざけてしまいます。どうか私たちの心をあなたの御言葉に立ち返らせ、自己中心から解き放ってください。
牧師 和田一郎
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