報いは神の御旨から

「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」(新共同訳) (箴言 19章21節)
 「佃祭り」という落語の演目がある。次郎兵衛は、夏に佃島で開かれる祭りをとても楽しみにしていました。祭りの日「暮六つごろの終い船で帰る」と妻に伝えて出かけます。次郎兵衛は佃島で、祭りを心ゆくまで楽しみました。帰ろうとして、満員の終い船に乗ろうとしたとき、突然見知らぬ女に呼び止められます。二人が話しているうちに次郎兵衛は乗りそこねてしまいました。 女は、三年前の出来事を語ります。奉公先のお金を失くして絶望し、橋から身を投げようとしたとき、見知らぬ旦那が五両のお金を恵んでくれたおかげで命が助かった。その恩人こそが次郎兵衛で、女は再会できたことを喜び、今は漁師の夫と幸せにしているから家に寄ってほしいと頼みます。次郎兵衛が酒や佃煮などをごちそうになっていると外が騒がしくなってきた。聞くと、先ほどの終い船が沈没し乗っていた人はみな溺れ死んだというのです。次郎兵衛は驚き、自分を引き止めてくれた女に深く感謝しました。 そのころ次郎兵衛の家では、船の事故の話が伝わり、妻や近所の人々は彼が死んだと思い込み、葬式の準備をしていました。通夜の最中に次郎兵衛が帰ってくると、みんな大喜びします。呼ばれていた坊さんは、次郎兵衛が昔、女の命を救った善い行いが、今度は自分の命を救う形で返ってきたのだと人々に語った。という話です。 この話の結末は、「人にした善い行いが、めぐりめぐって自分に返ってくる」という因果応報の考え方で理解されることが多いでしょう。しかし聖書では、これを単純な「報い」としては理解しません。聖書は、人の善行がそのまま運命として返ってくるというよりも、神が人の行いを覚えていてくださり、思いがけない形で恵みを与えてくださるという視点で語ります。 ですから次郎兵衛は「善行が機械的に返って来た」という因果応報の話ではなく、神が人の憐れみを用いて命を守られる恵みの物語として見ます。人が隣人に示した憐れみは、神の眼差しの中で決して失われない。神はそれを用いて、人の命や人生を守ってくださる方です。
《祈り》主なる神さま。私は善いことがあると、自分の手柄だと思って満足してしまいます。感謝されるのは、自分がやってきたことの報いだから当然だと思っているのです。どうか主よ、憐れんでください。すべてを越えて、あなたの御心が私たちの人生を導いておられることを、思いがけない出来事の中にも、主の憐れみを覚えて歩めますように。
牧師 和田一郎
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