疑問の中にも真意がある

預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、私はあなたより先に使者を遣わす。彼はあなたの道を整える。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を備えよ その道筋をまっすぐにせよ。』」 (マルコによる福音書1章2-3節)
 ある国際会議で記者会見が開かれました。しかし、その場には本来の専任通訳者がおらず、経験の浅い通訳者がドイツ外相の言葉を訳していました。外相は、東西ドイツ統一について「大切なのは、平和的に国境を変えていくことだ」と話しました。ところが通訳者は、「平和的に」という大事な言葉を訳し忘れてしまったのです。そのため会場には「重要なのは国境を変えることだ」と伝わってしまいました。まるで「つべこべ言わず、今すぐ国境を変えろ」と強く主張しているように聞こえたのです。幸い、会場には両方の言語に堪能な記者がいました。危険を感じた記者は、慌てて前に進み出て「外相、すぐに会見を止めてください。このままでは大変な誤解が広がります!」と訴えました。こうして会場に広がった緊張感は、通訳ミスだと説明して事なきをえたそうです。 たった一つの言葉が抜けただけで、意味は大きく変わってしまいますから、99パーセント正しく訳していても、一つの誤訳が大きな問題になる。通訳という仕事は大変ですね。 聖書にも「これは誤訳ではないか?」と議論される箇所があります。マルコ福音書1章2節で、著者マルコは「預言者イザヤの書にこう書いてある」と記しますが、実際の引用は マラキ書3章1節と出エジプト記23章20節の言葉です。そのため「マルコは間違えて引用している」と言われてきました。しかし続く言葉は イザヤ書40章3節であり、マルコは3つの預言を重ね合わせて、洗礼者ヨハネを「主の道を整える者」として描いているのです。こうした引用は初代教会で用いられていたのです(『聖書難問注解 新約編』)。 マルコは単なる引用の正確さより「神の救いが始まる」という預言の成就を伝えたかったのです。聖書を読む時「おかしい」と感じる箇所に出会うことがあります。しかし、その問いを深く掘り下げる時、表面には見えなかった神のメッセージが見えてくるのです。
《祈り》主なる神さま、私たちは聖書を読んでいる時、疑問に出会うことがあります。しかし、その問いの中にも、あなたは深い恵みを備えておられます。その奥にあるあなたの救いの御心を尋ね求める者としてください。荒れ野に響いた声が、今も私たちの心に届き、主の道を整える者として歩ませてください。
牧師 和田一郎
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