黙っていた方がいいのだ

「彼らは七日七夜、ヨブと一緒に地面に座っていたが、その苦痛が甚だしく大きいのを見て、話しかける者は一人もいなかった。」 (ヨブ記2章13節)
「黙っていた方がいいのだ もし言葉が言葉を超えたものに 自らを捧げぬ位なら」 (谷川俊太郎)  私たちは、悲しむ人を前にすると、何か気の利いたことを言わなければならないと思い、つい言葉を重ねてしまいます。言葉は大切ですが、ときに相手の悲しみを傷つけ、深い出来事を浅くしてしまいます。もし言葉が、そうした深い現実に謙虚に仕えようとしないなら、むしろ黙っていた方がよい。谷川俊太郎がここでいう「自らを捧げる」とは、自分の正しさや知識を誇る言葉をつつしみ、言葉を超えた現実を指し示すために、自分自身を差し出すことです。この詩について、ある評論家は「“言葉を超えたもの" と “沈黙の豊かさ" への信仰がある。おしゃべりに満ちた現代への拒絶がある。」(『折々のうた』大岡信)と評しました。 沈黙とは、何もしていない時間ではありません。相手の言葉に耳を傾け、その痛みを急いで説明したり、答えを出したりせず、共にそこにとどまることです。人から相談を受ける時も、同じように黙ることが大切でしょう。ただし、それは相手を拒む冷たい沈黙ではありません。「あなたの苦しみを、私はここで受け止めています」と伝える、温かな沈黙です。言葉が途切れても、その人から心を離さず、答えのない問いを共に抱える。そのような沈黙は、時に多くの助言よりも深く人を支えます。 信仰生活にも沈黙が必要です。祈りとは、願いを言葉にするだけではありません。神の前に静まり、言葉にならない思いをそのまま差し出す、その「沈黙」も祈りです。私たちが何も語れない時にも、神は沈黙の奥にある痛みや願いを知っておられます。 ヨブの友人たちは、苦しむヨブのもとを訪れ、すぐに慰めや説明の言葉を語ろうとはしませんでした。ただ七日七夜、彼と共に座り、その悲しみにとどまりました。まさに、七日七夜においては、相手から心を離さず、共にそこにいる温かな沈黙を表したのです。 その沈黙こそ、言葉を超えたものに自らを捧げた、慰めの言葉となるのです。
《祈り》主よ、悲しむ人の前で言葉を急がず、ただ共にいることのできる者としてください。語るべき時には愛の言葉を与え、黙るべき時には温かな沈黙を与えてください。言葉にならない痛みを、あなたが受け止めてくださることを信じます。
牧師 和田一郎
ご感想は下まで(スマホ・パソコンの方向けです) forms.gle/EkE9N8gDaJQ7ee2L9
発行者名 高座教会 www.koza-church.jp/