国宝が追い求めた景色

「よくよく言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」 (ヨハネによる福音書12章24節)
 「あの映画は、ビデオじゃダメよ。ちゃんと映画館で観なきゃ」などといろんな人に推しにおされて、『国宝』を映画館で観ました。歌舞伎という伝統芸能を圧倒的な美しさで描いた映像と、俳優の演技や容貌などなど・・・素晴らしい映画でした。長崎の任侠の家に生まれた喜久雄(きくお)は、敵対する組の討ち入りによって父を目の前で殺され、たまたまそこに居合わせた歌舞伎役者に引き取られ歌舞伎の世界へ飛び込みます。そして、女形としての才能を開花していく中で、自分を支えてくれる女性たち、芸妓との間に生まれた隠し子の娘など、周囲の愛を受け止めることもできずに、人を傷つけつつも芸を磨いていくのです。 どん底に追いやられた喜久雄が狂ったように踊るビルの屋上で「ねぇ、どこ見てんの?」と支え続けた女性に言われるシーンがある。私を見ていない。いや、いつも周りの人間のことなど見ることなく、あなたはいったい何を見つめて生きているのか?と問われるのです。あるインタビューを受けた時「“ある景色" を追い求めているが、それをうまく表現できない」とも答える喜久雄。物語全体を通じて、喜久雄は芸の追求、美の探究を重ねていくのですが、彼が探求していた“ある景色" がいったい何なのか?本人にもそれが明確ではないのですが、少年の時に見た父の死にざまが・・・。歌舞伎という外面的な美と、死にざまを通した内面的な美。 キリストの「一粒の麦」の言葉は、いのちの本当の意味が「自分を守ること」ではなく、「自分を差し出すこと」にあると教えています。イエスさまはご自身のいのちを、地にまかれる麦のように私たちに与えました。花が枯れてこそ種を残すように、失われることを恐れずに自らをささげるとき、そこに新しいいのちの実りが生まれるのだと・・・。 十字架という最も暗い場所で、神の愛を輝かせました。人が見捨てたように思える場所にこそ、神の栄光が輝くのです。それがキリストが見つめておられた「風景」。一粒の麦が死ぬとき、そこから命が芽吹くように、十字架の死にこそ、聖なる主の美しさと救いが生まれたのです。
《祈り》キリストの死を通して命が芽生え、闇の中に光が差しこむことを、私たちは主の十字架によって知りました。私たちがそれぞれの場所で、あなたの愛の美しさを表す器として用いられますように。
牧師 和田一郎
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