十字架がなくてもよかったのでは?
「神はこのイエスを、真実による、またその血による贖いの座とされました。それは、これまでに犯されてきた罪を見逃して、ご自身の義を示すためでした。神が忍耐してこられたのは、今この時にご自身の義を示すため、すなわち、ご自身が義となり、イエスの真実に基づく者を義とするためでした。」 (ローマの信徒への手紙3章25-26節)
イエス・キリストは、なぜ十字架で死ななければならなかったのか。神が全能なら、ただ赦せばいいのではないか。そんな素朴な疑問を抱く人もいるでしょう。ここでパウロが語るのは、神の「愛」と「正義」の問題です。 もし優しい裁判官がいて、「殺人も詐欺も全部赦します」と言ったらどうでしょう。それは寛大なように見えますが、被害を受けた人は救われません。悪が見過ごされる社会になってしまいます。それは愛ではなく不正義です。一方で、「罪人は全員罰する」というならどうでしょう。確かに正義は貫かれます。しかし、その場合は誰も救われません。私たちの中に罪を犯さない完全な者はいないからです。 神はこの二つのどちらかを選ばれたのではありませんでした。正義を捨てず、愛も捨てなかったのです。その両方を貫くために、ご自身がその代価を負われました。それが十字架です。私たちは誰かを本当に赦そうとするとき、その痛みを自分で引き受けます。傷つけられた事実は消えません。しかし、それでも相手を赦すなら、その代価は赦す側が負うことになります。 神の赦しも同じです。神は罪を「なかったこと」にしたのではありません。神が人間の罪の代価を、ご自身の子であるキリストを十字架にかける事で引き受けられたのです。ですから、十字架は、怒る神をなだめる為の出来事ではありません。むしろ、神が私たちのために痛みを背負ってくださった出来事です。ですから十字架を見るとき、私たちは「神は正しい方である」と同時に、「神はここまで私たちを愛してくださったのだ」と知るのです。十字架は、神の「正義」と「愛」が重なった場所なのです。
《祈り》愛と正義の神さま。十字架において、あなたは罪を軽く扱われることなく、その重さをご自身で担ってくださいました。正義を捨てず、愛を捨てず、私たちの救いの道を開いてくださいました。ですから、私たちが人を赦すことが難しい時、十字架の愛を思い起こさせてください。
牧師 和田一郎
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発行者名 高座教会 www.koza-church.jp/
イエス・キリストは、なぜ十字架で死ななければならなかったのか。神が全能なら、ただ赦せばいいのではないか。そんな素朴な疑問を抱く人もいるでしょう。ここでパウロが語るのは、神の「愛」と「正義」の問題です。 もし優しい裁判官がいて、「殺人も詐欺も全部赦します」と言ったらどうでしょう。それは寛大なように見えますが、被害を受けた人は救われません。悪が見過ごされる社会になってしまいます。それは愛ではなく不正義です。一方で、「罪人は全員罰する」というならどうでしょう。確かに正義は貫かれます。しかし、その場合は誰も救われません。私たちの中に罪を犯さない完全な者はいないからです。 神はこの二つのどちらかを選ばれたのではありませんでした。正義を捨てず、愛も捨てなかったのです。その両方を貫くために、ご自身がその代価を負われました。それが十字架です。私たちは誰かを本当に赦そうとするとき、その痛みを自分で引き受けます。傷つけられた事実は消えません。しかし、それでも相手を赦すなら、その代価は赦す側が負うことになります。 神の赦しも同じです。神は罪を「なかったこと」にしたのではありません。神が人間の罪の代価を、ご自身の子であるキリストを十字架にかける事で引き受けられたのです。ですから、十字架は、怒る神をなだめる為の出来事ではありません。むしろ、神が私たちのために痛みを背負ってくださった出来事です。ですから十字架を見るとき、私たちは「神は正しい方である」と同時に、「神はここまで私たちを愛してくださったのだ」と知るのです。十字架は、神の「正義」と「愛」が重なった場所なのです。
《祈り》愛と正義の神さま。十字架において、あなたは罪を軽く扱われることなく、その重さをご自身で担ってくださいました。正義を捨てず、愛を捨てず、私たちの救いの道を開いてくださいました。ですから、私たちが人を赦すことが難しい時、十字架の愛を思い起こさせてください。
牧師 和田一郎
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