カルヴァンの汚点

「他人の召し使いを裁くあなたは、一体何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人次第です。しかし、召し使いは立つでしょう。主がその人を立たせることがおできになるからです。」 (ローマの信徒への手紙14章4節)
 宗教改革者カルヴァンにも、汚点と呼ばれるできごとがありました。神学者ミカエル・セルベトは、三位一体を否定し、幼児洗礼にも反対する著作を出版したため、カトリック、プロテスタントの双方から危険な異端者と見なされていました。カルヴァンはセルベトの神学を危険な異端者であると考えていました。そしてカルヴァンが大きな影響力を持っていたジュネーヴに、セルベトが訪れた際、彼を捕らえて、裁判の末、火刑に処したのです。当時は教会や国が、異端者を社会秩序を脅かす重大な罪人と考え、死刑にすることがありました。とはいえ、時代背景を考えても、信仰の違いを理由に死刑を支持したことは、今日の教会において正当化されるものではありません。 1903年、セルベト処刑から350年を記念して、ジュネーヴに改革派の人々によって「贖罪記念碑」が建立されました。この記念碑に記された言葉があります。 「カルヴァン、私たちの偉大な宗教改革者を尊敬し感謝しつつも、彼の時代の誤りを非難し、宗教改革と福音の真の原理である良心の自由に堅く立って、この贖罪の記念碑を建てる。」ここには自分たちの教会の過ちを認め、そこから学ぼうとする姿勢があります。 使徒パウロが語るように、私たちは皆、同じ主人に仕える「召し使い」です。最終的に人を裁くのは私たちではなく、神です。そして驚くべきことに、パウロは「召し使いは立つでしょう」と語ります。私たちが「あの人は間違っている」と思ったとしても、神さまは、その人を立たせることができるというのです。 セルベトの悲劇は、いつの間にか「自分こそ神に代わって裁くことができる」という傲慢さに変わってしまう危険を教えています。真理を大切にすることと、異なる者を尊重することは矛盾しません。私たちは謙遜に真理を語りながら、同時に他者の良心と尊厳を大切にすることができるのです。
《祈り》主よ、他人を裁く私は、いったい何者でしょう? 裁くことばかりで、理解することを怠っていました。排除しようと考え、対話することを忘れていました。今、悔い改めたいと思います。
牧師 和田一郎
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