一を知りて二を知らず
「そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、見つめているうちに、すっかり治り、何でもはっきり見えるようになった。」 (マルコによる福音書8章25節)
「一を知りて二を知らず」という古代中国から伝わる言葉があります。「一」は、すでに知っている一つの事柄や一面を表し、「二」は、その背後にある別の事柄、反対の側面、次の段階などを表します。したがって、単に「知識が少ない」という意味だけではなく。むしろ、わずかな知識しかないのに分かったつもりになる態度を戒める言葉です。 イエスさまのもとに、一人の盲人が癒してもらいたいと願い連れて来られました、イエスは盲人の目に唾をつけ、両手を置いて、「何か見えるか」とお尋ねになりました。すると盲人は目を上げて言いました。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」彼は何も見えなかった状態から、見えるようになりました。しかし、まだはっきりとは見えていません。「見えた」と言うことはできますが、正しく見ているとは言えません。 そこでイエスさまは、もう一度、その人の目に両手を置かれました。すると、彼の目は完全に開かれ、何もかもはっきり見えるようになったのです。福音書でイエスさまが二度にわたって癒やされた出来事は、ここだけです。弟子たちはイエスさまの数々の奇跡を目撃して、救い主であることは分かり始めていましたが、ご自分の命を捧げて「贖い」となってくださる救い主であるとは分かっていませんでした。私たちは、自分に見えている一面だけが、その人のすべてであるかのように考えてしまいます。しかし、イエスさまは、まだよく見えていない盲人の目に両手を置いてくださいました。主は、私たちの曖昧な理解や未熟な信仰にも、忍耐強く関わってくださいました。信仰とは、自分にはまだ見えていないものがあると認め、主に目を開いていただくことです。 《祈り》主よ、私たちの目を本当に開いてくださるのは、イエスさまです。人は、物事の一面を見ただけで、すべてを分かったつもりになっています。自分の知識や理解には限りがあることを認める謙遜な心をお与えください。
牧師 和田一郎
ご感想は下まで(スマホ・パソコンの方向けです) forms.gle/EkE9N8gDaJQ7ee2L9
発行者名 高座教会 www.koza-church.jp/
「一を知りて二を知らず」という古代中国から伝わる言葉があります。「一」は、すでに知っている一つの事柄や一面を表し、「二」は、その背後にある別の事柄、反対の側面、次の段階などを表します。したがって、単に「知識が少ない」という意味だけではなく。むしろ、わずかな知識しかないのに分かったつもりになる態度を戒める言葉です。 イエスさまのもとに、一人の盲人が癒してもらいたいと願い連れて来られました、イエスは盲人の目に唾をつけ、両手を置いて、「何か見えるか」とお尋ねになりました。すると盲人は目を上げて言いました。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」彼は何も見えなかった状態から、見えるようになりました。しかし、まだはっきりとは見えていません。「見えた」と言うことはできますが、正しく見ているとは言えません。 そこでイエスさまは、もう一度、その人の目に両手を置かれました。すると、彼の目は完全に開かれ、何もかもはっきり見えるようになったのです。福音書でイエスさまが二度にわたって癒やされた出来事は、ここだけです。弟子たちはイエスさまの数々の奇跡を目撃して、救い主であることは分かり始めていましたが、ご自分の命を捧げて「贖い」となってくださる救い主であるとは分かっていませんでした。私たちは、自分に見えている一面だけが、その人のすべてであるかのように考えてしまいます。しかし、イエスさまは、まだよく見えていない盲人の目に両手を置いてくださいました。主は、私たちの曖昧な理解や未熟な信仰にも、忍耐強く関わってくださいました。信仰とは、自分にはまだ見えていないものがあると認め、主に目を開いていただくことです。 《祈り》主よ、私たちの目を本当に開いてくださるのは、イエスさまです。人は、物事の一面を見ただけで、すべてを分かったつもりになっています。自分の知識や理解には限りがあることを認める謙遜な心をお与えください。
牧師 和田一郎
ご感想は下まで(スマホ・パソコンの方向けです) forms.gle/EkE9N8gDaJQ7ee2L9
発行者名 高座教会 www.koza-church.jp/

