安易に語らない

「彼らは、わが民の傷を安易に癒やして『平和、平和』と言う」 (エレミヤ書6章14節)
 ある大切な母親を失ったAさんの話がある。「母を病気で亡くした悲しみでいっぱいです。親孝行できなかったことを後悔しています。転職が失敗して母には迷惑をかけてしまいました。今振り返ると、母はその頃から体調を崩しがちになりました。心配をかけた分、これからは幸せに暮らして欲しいという願いとは正反対に病気は悪くなり、この世を去ってしまいました。罪悪感だけが残っています。」 この人に対して知人Bさんが「お前の気持ちはよく分かるよ。でも、誰でも親を亡くすとそう思うものだよ。時間が解決してくれるから頑張れよ」と慰めてくれた。しかし、Aさんはガッカリするだけだった。ただ「自分の気持ちは分かってもらえない」という思いが募るだけでした。 牧師ボンヘッファーは著書『共に生きる生活』で語ります。「交わりの中で、ひとりが他の人に対して負っている第一の奉仕は、他の人の言葉に耳を傾けるということである。神への愛は、われわれが神の言葉を聞くことから始まるように、兄弟への愛の始まりは、われわれが兄弟の言葉を聞くことを学ぶことである。」 人を慰めたいと思うとき、私たちはつい、言葉を急いでしまいます。「誰でも経験することだ」「私の場合はこうだったから」。それらは善意から出た言葉でしょう。しかし、深い悲しみの中にいる人には、その言葉が「いつまでも悲しんでいてもしょうがない」と聞こえてしまうことがあります。 預言者エレミヤは、人々の深い傷に向き合わず、「平和、平和」と安易に語る偽預言者たちを厳しく批判しました。傷が深いのに、表面だけを覆って「もう大丈夫」と言うなら、それは本当の癒やしにはなりません。必要なのは、傷を急いでふさぐことではなく、その痛みを痛みとして受け止めることです。悲しむ人の傍らで、何も言えずに黙っている。その沈黙は無力ではありません。「あなたの悲しみを簡単には分かったと言えない。それでも、ここにいます」という沈黙は、安易な励ましよりも深い慰めになります。 神は、私たちの悲しみを急いで終わらせようとはなさいません。涙も、後悔も、言葉にならない思いも、すべて受け止めてくださいます。だから私たちも、苦しんでいる人を言葉で立ち直らせようとする前に、まずその心の声に耳を傾けたいのです。
《祈り》主よ、この私が、悲しむ人の痛みを、安易な言葉で覆うことがありませんように。言葉が見つからないときにも、黙って傍らにいる愛と忍耐をお与えください。
牧師 和田一郎
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