よう知らんけど

「柔らかな受け答えは憤りを鎮め 傷つける言葉は怒りをあおる。知恵ある人の舌は知識に磨きをかけ 愚かな者の口は無知を吐き出す。主の目はすべての場に注がれ 善良な人も邪悪な者も見張っている。」 (箴言15章1-3節)
 かつて会社勤めをしていた時、毎月、仕事で大阪に行っていました。その中で、関西の人は「よう知らんけど」と、よく言うよなぁと思っていました。おしゃべり上手な人がいたのですが、彼は何かについて長々としゃべっておいて、最後に「よう知らんけど・・・」って言うのです。 それだけしゃべったら「よう知らんも何もないでしょ」と思うのですが、他でも関西でよく耳にするので、関西特有の言い回しだと思います。この言葉の絶妙なところは、意見や感想として言いたいことはハッキリ言う。でも断定的ではなく、あえて最後に逃げ道を作っていることです。話を重くせず、最後に「よう知らんけど!」と落とすことで、「まあ、そう思うけどな」というユーモア混じりのニュアンスになるのです。自信満々に話していた流れを自分でひっくり返すので、笑いにもなります。 旧約聖書の箴言には、私たちが日々発する「言葉の質」について、教えが記されています。「柔らかな受け答えは憤りを鎮め」「知恵ある人の舌は知識に磨きをかけ」とあります。言葉の知恵とは、単に正しい知識を並べることではなく、それをいかに「柔らかく」相手に届けるかという配慮にあります。一見すると無責任にも聞こえる関西の「よう知らんけど」ですが、そこには言葉のトゲを抜いて相手に届ける「柔らかなクッション」のような知恵を感じます。どれほど熱弁を振るっても、最後に余白を残す。 続いて「主の目はすべての場に注がれ、善良な人も邪悪な者も見張っている」とあります。神さまが見つめておられる私たちの日常において、言葉で圧倒しようとするのではなく、少しのユーモアと謙遜さを持って人と向き合うこと。日々のコミュニケーションの中で、そんな「知識を磨いて」いきたいものです。
《祈り》神さま、私たちは「自分は正しい」と思って話します。正しいことを伝えたいと思うあまり、相手を圧倒してしまうことがあります。人の思いに耳を傾ける謙遜さと、自分の考えを絶対視せず、柔らかく届ける知恵をお与えください。
牧師 和田一郎
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