神さまに信頼すること

「だれかが、1ミリオン行くように強いるなら、一緒に2ミリオン行きなさい。」
(マタイ5:41)

 誰かに1ミリオン行くようにと強制される時に、私たちの心は「やらされ感」で一杯になるでしょう。
逆に、「そうならば、自分の意思で2ミリオン行くことにしよう」と自分の心に決めて何かをする時に、それは「やらされ」て「する」のではなく、主体的に選びとって生きる生き方なのだ。
神の子としての生き方とは、そうした主体的な生き方なのだ、とイエスさまは教えてくださいました。

 私たちにも、こうした経験はよくあるのではないかと思います。自分の境遇を憂えると言うことは、誰にでもあることでしょう。
そうした「境遇」とは、ある意味で、「1ミリオン行くように強いられている経験」でもあります。
 でも、それをただ受け身的に受けとめ、自分自身はこうした境遇の犠牲者であり、本当に惨めな境遇に置かれている存在なのだ、ということで、常に自己憐憫に浸っているとするならば、そこには本当に解決はないのです。
神さまが悲しまれることは、私たちが、神さま以外の何かの奴隷になっていることです。

 神さまが一番願っておられることは、どのような境遇にあっても神さまに信頼を置くことによって、捕われから解放されていくことです。

 イエスさまは、日ごとの糧のために祈るように、と教えられました。それは「お金がもうかるように」という祈りではなく、「必要が満たされるように」という祈りです。
もっと言えば、「必要は神さまによって必ず満たされる確信をもって、そこから解放されていきなさい」という祈りです。大事なことは、どんな時でも神さまが私を覚えていてくださるという信頼です。
 空の鳥を養い、野の花を着飾る神さまは、私たちに対しては、それ以上のことを必ずなしてくださる、という信頼です。

 この神さまに、あなたは守られています。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

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