聖霊の実を求めて
「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。
以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。」(ガラテヤ5:19―21)
ある日、エリヤが「あなたはここにとどまっていなさい」と言ったのに対してエリシャは「わたしはあなたを離れません」と真剣に食い下がったことが聖書に出て来ます。
何故、エリシャは食い下がったのでしょうか。それは、彼の中に切実な願いがあったからです。その願いとは、エリヤに働く聖霊が欲しかったのです。
ところで、時々、信仰生活を誤解している方と出会うことがあります。一生懸命、知識を増やし、学びをするのですが「喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」というような聖霊の実が見えないのです。
クリスチャンであっても、ぶどうの木であるイエスさまにつながらない時には、どんな実を結ぶでしょうか。パウロは、そうしたクリスチャンの姿を「肉の業」と呼び、次のように言っています。
「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。
以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。」
20年も30年もクリスチャン生活をしていれば、今日の聖句については、知識としてよく分かっていることでしょう。
でも、本当に知りたいことは「肉の業」が何かではなく、どうしたら「霊の実」を私たちの内側にもたらすかということです。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」
ぶどうの木であるキリストから離れることなく、キリストに似た私へと造り変えていただくことを求め続けていきましょう。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘