騒動の原因なる教会
「そのころ、この道のことでただならぬ騒動が起こった。」 (使徒言行録19:23)
使徒パウロの語る御言葉によって、聖霊が働き、エフェソにある教会が教会らしく成長し、一人ひとりが変えられていった時、それがエフェソの住民に対して真の神様を指し示す証しとなっていきました。
しかし、パウロがキリストに忠実になるにしたがって、エフェソの人々は、ある種の不安感と危機感を心のなかに募らせていきました。こうしたなかで起こったのが今日の個所に記録されている《騒動》でした。
銀細工職人のリーダー格のデメトリオという金持ちの男が、「手で造ったものなど神ではない」と主張しながら伝道しているパウロの存在がいかに自分たちにとって不利益かを、アルテミス像を作って生計を立てていた職人たちを集めて訴えたわけであります。
その訴えがきっかけとなってエフェソの町全体を巻き込む大騒動に発展していったのです。
注目したいことは、《騒動の直接の原因が教会にあった》ということです。
それは《神様の願っている教会の姿と私たちが望む教会の姿のズレ》であります。
分かりやすく言うならば、コミュニティー教会として仕えていくことは、ときにその地域社会の人々にとって好ましからぬ状況が起こりうるということです。
そして、それは、私たち教会の側からしても、どうでしょうか。私たちの伝道は、教会員である私たちがまったく変わることなく、新しい人々を神の家族としてお迎えすることは不可能です。
新しい恵みというぶどう酒のために私たち自身が新しい皮袋になるようにと神様は願うのであります。
何故なら伝道とは、教会にとって、私たちにとっての都合の良い人、都合のよい大人しい若者や子どもたちに対してだけ働きかける業ではありません。
むしろ、私たちが、コミュニティー教会として生きるということは、地域社会が抱える問題を抱え込む可能性があります。
イエス様が、最後の最後のところで問われることは何かと言えば、どれだけ自分とは違った人々を受け入れ、愛し、支えあうことができ、愛することのできない自分と戦ったかではないでしょうか。
最後には私たち自身の神様に対する献身が問われてくると思うのです。全アジア州の伝道のためにエフェソの教会の兄弟姉妹をその家庭、職場、学校にあって自由自在に用いられた聖霊なる神様が、私たちと共におられます。
いってらっしゃい
牧師 松本雅弘