情報過多の時代

「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。」 (ルカ8:5)

 「種を蒔く人のたとえ」の箇所です。この箇所で考えさせられるポイントのひとつは、「種の小ささ」ということです。もちろん、中にはヒマワリのような比較的大きな種もあるでしょうが、種は他のものと比べたら小さなものだと言えます。
種は小さく、あまり目立たない。ですから、時として、後回しにされてしまうようなものです。
以前、ある本を読んでいましたら、クリスチャンの幼稚園の園長が、戦時中から今に至るまでの教育の在り方をおさらいしながら、こんなことを書いておられました。
「今の時代は、戦時中のように、『他人を殺して戦え!』と言うかわりに、『命を大切にしよう!』と大きな声で言える。また、子どものために必要な食物と環境を用意してあげることにさほどの苦労もない時代なので、『健康に生きよう!』と言ってあげられる。
また価値観が多様化し、個性尊重の時代の中で、『自分らしく生きよう!』と、しっかり伝えることも出来る。今でも世界のあちらこちらには、そんな風に言ってやりたくても、そうすることの出来ないお母さんたちも大勢いる中で、今の日本は何と自由で恵まれているだろうか。」
そして、園長先生の話は続きます。「こうした豊かな時代である反面、子育てに極度の疲れを覚え、苦闘しているお母さんたちが多い。こうした困難さの背景には《情報過多》があり、そして《より処の喪失》、という2つの理由を専門家は上げているのだ」、という話でした。
《何を信じてよいか分からない》。その結果、子育てに疲れを覚え、子育ての不安の中に置かれるというのです。
よく考えてみますと、これは子育てに限ったことではありません。今は様々な面で情報が溢れている時代です。そして、私たちクリスチャンにとっても、そうした周囲の情報の中で、いつの間にか、《聖書の言葉の価値》が小さく思える時があります。
まさに、小さな種粒に過ぎないのです。そうした小さなものに、価値があるなどと思えない、何か時代遅れで、大した価値などない、とサタンは私たちにささやくのです。様々な出来事が起こり、私たちの内側にある欲求をくすぐるような誘惑の声に満ちているのです。
主の語りかけは聞き逃してしまうほど、蒔かれる種は小さいのです。いや、語りかけの声に比較して、周囲の声、私たちへの誘惑の声は大きい、ということでしょう。ですから、こうした小さな種を私たちの側でどのように受け入れていくか、という姿勢が問われてくるのです。
今日も神様の語りかけは聞こえていますか。

 いってらっしゃい

 牧師 松本雅弘

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