誰の目の前に富むか?

「主の目に悪とされることを行って」(列王記上15:34)

 列王記には、北イスラエル王国に次々と登場する歴代の王さまの働きが記録されています。初代の王さまはヤロブアム、その次はナダブ、そしてバシャ、エラ、ジムリ、オムリと続きます。エラは2年、ジムリにいたってはわずか7日間の在位でした。
頻繁に入れ替わる王さまたちの治世を通しての特徴は「主の目に悪とされることを行った」ということでした。例えばオムリは12年。そして、その後出てくる北イスラエル最悪の王と言われるアハブに至っては、治世は22年であったことが分かります。
そして、その長期安定政権の間、北イスラエルは政治的、経済的な意味で発展や成長を遂げたように見えます。ところが、それに反して、列王記は「彼以前のだれよりも悪い事を行った」とその評価が下されているのです。
 こうしたことを知り、私たちは誰の目の前に富む者であることを願うか、ということを改めて問われるように思います。
つまり、「世間の物差し」と別の物差しを持てば、人生を楽しむゆとりもできますし、人間関係においても、役に立つ人だけと付き合うのではなく一緒にいて楽しくくつろげる相手とかかわるようになりますので、そこで良い仲間もできるわけです。
そのように、聖書に親しむにつれ、実は、「世間の物差し」が人生のすべてではないことを教えられるのです。逆に、いわゆる「世間の物差し」しか持っていないことで、様々な意味で危機を経験することがあることも知らされます。
むしろ家族を大切にするという物差し、クリスチャンであれば、神さまとの関係を大事にするという聖書の物差し、そうした物差しが、私たちの人生を本当の意味で豊かにすることを知らされますし、その恵みを私たちも経験していることだと思うのです。
そう思いませんか?

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

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