もしイエスさまが共におられたのなら

「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」(ルカ24:31)

 十字架の出来事の直後、2人の弟子たちは、肩を落としながらエマオに向かって歩いていました。
そこに復活の主が立たれ、聖書を説き明かし、パンを裂いて祝福してくださいました。その時、2人の目が開け、それがイエスさまだと分かった、というのです。
 この出来事を見る時に、人間って、本当に不思議だと思います。十字架の出来事以前、2人はイエスさまの弟子たちだったのです。
イエスさまと生活を共にし、イエスさまと顔と顔を合わせてお話を聴いていたはずなのに、ここで共に歩んでくださるイエスさまに気が付かなかったというのです。

 でも、どうでしょう。よくよく考えてみますと、この2人の弟子たちのことを、私たちは笑うことなどできないのではないかと思いました。
と言うのは、私たちもイエスさまが共にいてくださるにもかかわらず、イエスさまが共におられないような生き方をしてしまうことがあるからです。
 もしイエスさまが共におられたら、こうした私の感情の浮き沈みは起こるでしょうか?もしイエスさまが共におられたら、こんなにも簡単に私は誘惑に負けてしまうでしょうか?
もしイエスさまが共におられたら、何でこんなに必死になって友だちにメールし、電話を掛け、自分の気持ちを聴いてほしいと思うでしょうか?
 聖書は、イエスさまこそ、あなたの同伴者であることを教えています。イエスさまが復活されたということは、世の終わりまであなたの同伴者となるために復活してくださった、と言うことを意味します。
 今、私たちに必要なことは、エマオ途上の2人の弟子たちのように、心の目を開いていただき、イエスさまが共におられることに気づかせていただくことではないでしょうか。
 今日もイエスさまは、あなたと共におられます。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

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