弟子としての召し
「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタイ28:19)
聖書に「弟子」という言葉が出て来ますが、弟子とは一体どのような存在なのでしょうか。弟子とは、特別な目的を持って、イエスさまから招かれた者たちのことです。
そして、イエスさまは、その招きに応えるように願っておられる、ということです。
ところが、英語で「弟子として育て上げる」ことを「ディスプリン」と言います。当然ですが「ディスプリン」という英語から、「弟子」すなわち「ディサイプル」と言う言葉が出来ています。
さて、この「弟子として育て上げる」ことを意味する「ディスプリン」を辞書で引くと「仕付け」という日本語も出てきます。
実は、国語辞典で「しつけ」を引きますと「身を美しく」と書いた「躾け」と、いわゆる裁縫で「仕付け糸」という物がありますが、「仕え付ける」と書く「仕付け」という漢字の2つが出てきます。
実は、「身が美しい」と書く「躾け」の方は、これは和製漢字だそうです。意味は、と言えば、「見栄えを美しくする」という意味で、人の目をもって、その人の振る舞いを規制する「躾け」です。
例えば「そんなことをすると、人に笑われますよ」、「ほら、そんなところで駄々をこねていると、だれだれちゃんが見ていますよ」と行動を規制します。
自分自身を振り返りますと、私もそのように躾けられてきたように思います。その結果「人の目に自分がどう映るか」が一番の関心事となります。
でも聖書の「弟子」という言葉から出来ている「ディスプリン」は、「人の目をもって行動を規制する生き方」ではなくて、むしろ、「神さまのご意思を求め、その神さまのご意思に生きる生き方」です。
もっと言えば、主の御心に心が集中していく。そこに焦点が絞られていくことが弟子の生き方です。私たちは、こちらを求めていきたいものです。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘