心の貧しい人は幸い?
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(マタイ5:3)
ある日、主イエスは、大勢の人々をガリラヤ湖畔の丘の上に導き、「幸いである!心の貧しい人々!天の国はその人たちのものです!」と語り始めました。
ここで主イエスは単なる「貧しさ」ではなく、「心の貧しさ」を問題にされたのです。
日々の生活で、自らがいかに心の貧しい者であるかを知らされてくると、次第に救い主が必要であることを分かり始めるように思います。
ある時、主イエスは、「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と語られました。
実はその直前、持ち物と仕事を第一優先にして歩む裕福な青年に出会っておられました。
彼にとっては仕事が全て、お金が全てで、そこに最高の価値を置き、主イエスに従うことは二の次でしたので、最終的には主イエスの弟子になることはできませんでした。
また主イエスは、同じように金持ちであったザアカイという人と出会っておられます。先ほどの裕福な青年とザアカイの共通点はお金持ちであったことです。
ふたりとも人生のある時点までは、そのことに価値を置いていたので、お金持ちになったわけでしょう。
それに対しふたりの相違点は何でしょう?それは「心の貧しさ」にありました。
ザアカイは徴税人という仕事柄、「罪人」扱いされていました。人がうらやむほどの豊かさがあった反面、心の深いところで癒すことのできない渇きを経験していました。
お金で癒そうとしても癒せない心の渇きがありました。でもザアカイには、「心の貧しさ」、そこから生じる悲しみや痛みがあったので癒してくださる主イエスに出会うことができたのかもしれません。
あなたの心は渇いていませんか?そのままの心で主イエスに近づくことができるから幸いなのです。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘