「あきらめる」ことについて
「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」(創世記28:15)
日々の生活の中で、辛い出来事に遭遇すると、〈こんな私だから、悪い事が起こって当然・・・〉と、初めからあきらめてしまうことはないでしょうか?
「あきらめる」ことについて次のような文章がありました。
どうして私たちは、あきらめてしまうことが、あるのでしょうか?
それは、私たちはあらかじめ「あきらめるところ」を決めてるからなのです。
お金がなくなったら、あきらめよう。
今までの経験で対応出来ないことは、あきらめよう。
十通りの方法で試してうまくいかなければ、あきらめよう。
時間がきたら、あきらめよう。
誰も助けてくれなければ、あきらめよう。
「あきらめるところ」まで努力して、それでも成果が出なければ、環境や他人のせいにして不満や愚痴を言うようになる。
それらは、始める前からどこで言うかを決めて準備していたことなのです。
簡単にあきらめる人ほど、不満や愚痴を言う準備をしています。
しかし、あきらめない人は、不満や愚痴を言いません。
なぜなら、あきらめない人は、それらを言ったところで、何も解決出来る事はないことを知っているからです。
あきらめないと決めると他人から怒られたり非難されたりしても、アドバイスに聞こえるようになります。
あきらめない人にとっては、周りの人はどのような人であっても、感謝したくなる存在に見えるのです。
僕は決めました。「あきらめる」ことをあきらめる、と。
クリスチャンにとって幸いなのは、私たちがあきらめることがあっても、神さまは決して私たちをあきらめないお方であることを知らされていることでしょう。ですから主にあって、「あきらめる」ことをあきらめられるのです。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘