キリストという素晴らしい主人に仕える僕

「キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。」(フィリピ1:1)

「僕」とは「奴隷」のことです。
ところで、奴隷になることは一番いやなことなのではないでしょうか。なぜならば、奴隷とは主人とのかかわりにおいてすべて決まる存在です。
例えば、主人が良い主人だったら奴隷は幸せでしょう。でも、悪い主人であったなら奴隷自身の能力とか性質にかかわらず、主人の気分次第です。
このように考えますと、奴隷にとって大事なことは?自分が仕えている主人がどのような主人であるのかということ。また、その主人とどのような関係の中に置かれているか、ということだと思うのです。
ところで、使徒パウロは自分のことを「キリスト・イエスの僕であるパウロ」と自己紹介しています。そしてその言葉には悲壮感や頑張りのようなものは感じません。むしろ自然に、明るく、そのように自己紹介しています。
何故か、と言えば、彼が仕えていた主人であるイエスさまは最高のお方だからです。パウロは、そのお方の僕として生かされている喜びと誇りを感じて生きることができたのです。
そのお方は言葉に言い尽くせない程、素晴らしいお方です。しかも、パウロ自身の能力や性質に左右されない愛をもって、パウロを愛し守り支えてくださっていました。パウロはそのことを、誰よりもよく知っていました。
ところで、聖書によれば、クリスチャンなら誰もが、パウロと同じように「キリスト・イエスの僕」として召されていることを教えています。あなたは、そのこと、ご存知でしたか?
あなたはパウロ同様に、素晴らしい主人に仕えるキリストの僕として召されています。このこと、忘れないでいてくださいね。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

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