道が閉ざされた時

「ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった。それで、ミシア地方を通ってトロアスに下った。その夜、パウロは幻を見た。」(使徒言行録16:7−9前半)

 使徒パウロはシラスとテモテと共に宣教のためにアジア州へ渡ります。ところが、そこで聖霊が彼らの歩みにストップをかけられたのです。悪いことをしていてストップがかかるのは当たり前です。
でも、宣教することは御心であり、地の果てまで福音を伝えることはイエスさまのご命令です。ところがその「イエスの霊」である聖霊が道を閉ざされたのです。
しかし話はそれで終わりませんでした。そこで立ち止まり御心を求めて祈ったパウロに、今度は「マケドニアの幻」が示され、後の教会史に絶大な影響をもたらすヨーロッパへの伝道のきっかけが与えられていくことになりました。
ですから、あの時、道が閉ざされていなければ、そのことで立ち止まり祈ることもなく、ましてやヨーロッパ伝道につながる「マケドニアの幻」を示されることもなかったことでしょう。
今年私たちは、コロナ・パンデミックにより、色々な場面で道が閉ざされるような経験をしてきたのではないでしょうか。それだけではありません。
突然の出来事や病気、そうしたことによって人生の岐路に立たされ、道が閉ざされるような経験をすることがあります。
しかし振り返ると、道が閉ざされたことによって、より豊かな神さまの恵みにあずからせてくださったとしみじみ思えることもあります。
とくに神さまの視点で一つひとつの出来事を振り返る時に、そう思えることがあることは、私たち信仰者に与えられた特権なのではないでしょうか。
ですから希望を持つことができる。ギリギリのところで失望せずに守られる。なぜなら閉ざされた道の横に、恵みの深みへと導く別の道を、神さまは用意しておられるからです。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

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