神さまの願い

「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。
主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」(1テサロニケ5:9−10)

 アダムとエバは罪の責任を逃れるためにありとあらゆることをしました。アダムは「彼女が私にその木から取って与えたので食べました」と言って自らの過ちをエバのせいにしました。
それだけではありません。神さまに向かっても「あなたが私と一緒にしたその女が私に食べさせたのです」と、神さまのせいにもしています。
一方エバはエバで「ヘビがだましたので食べました」とヘビに責任をなすりつけました。心痛めた神さまは彼らの言い訳を取り上げようとはせずに裁きを宣告したのです。
 ある牧師は「私たちが経験する悲しみの原因の一つは自分がやったことなのに人のせいにしてしまうことにあります。罪が示されたのなら正直に告白し、神さまに赦しを求めなければなりません」と話していました。
私たちも「親が手をかけてくれなかったから」「友だちが意地悪だから」「子どもたちが反抗的だから」「上司が配慮に欠けた人だから」「理解のない伴侶だから」「毎日忙しいから」と言って誰かのせいに、あるいは何かのせいにしてしまいやすいものです。
でも本当の意味でキリストの恵みと平安をいただくためには、そうしたことを止め、自らの過ちを認め、素直な心で「ごめんなさい。弱い私を助けてください」と神さまに赦しと助けを祈り求めることが大切です。
イエスさまが来られたのはあなたを裁くためではありません。あなたを救い、赦しを与えるために来られたのです。目覚めている時も眠っている時も、あなたが主と共に生きるようになることこそが、神さまの御心であり、願いなのです。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

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