イエスさまの赦しの愛

「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。」(Ⅰコリント12:21)
 保護観察中の女子中学生がいました。彼女が学校の授業で老人ホームで介護体験をしたのです。最初は嫌々やっていましたが、帰り際にお年寄りが手を握って「ありがとう、明日も来てくれるんでしょう?」と言ったそうです。その一言を聞いた瞬間、彼女の心に何か言い知れない感動が湧き目からは涙が流れたそうです。その後、彼女は介護福祉士になろうと決心し、現在その職にあるそうです。  後になって彼女は、その時の感動を「ああ、こんな私でも必要としてくれる人がいるんだ。こんな私にも『ありがとう』と感謝してくれる人がいるんだ」と説明したそうです。 それまで周囲からは迷惑がられてばかりでした。「お前なんかいないほうがましだ」と言われたり、そうした周囲の目を痛いほど感じ、いつも突っ張って生きてました。 〈自分なんていないほうがいいかも…?でも、いまさら親の気に入る『良い子』になんてなりたくもない…。でも、本当にこのままで…〉。この際限のない悪循環を断ち切ってくれたのが、お年寄りの「ありがとう」の一言だったそうです。  聖書は、体全体が目ではないのだから、目が足に向かって「見ることのできないお前は要らない」とはいえない。体全体が足ではないから、足が目に向かって「歩くことのできないお前はいらない」とは言えない。聖書の譬えはすごいな、と思います。当たり前のことを言っていますが、実際、私たちはこのようなおろかな罪を犯しがちです。自分でも〈お前は要らない〉と、そう思ってしまいがちです。これはサタンのささやきです。こうしたメッセージは、あなたを縛り、周囲の人を縛ってしまうのです。この縛りから呪縛から解放するのがイエスさまの赦しの愛なのです。
 いってらっしゃい。
 牧師 松本雅弘
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