別の見方をもって
「心の貧しい人々は、幸いである」(マタイ5:3)
今月、私は、ニューメキシコ州アルバカーキで行われた、カンバーランド長老教会総会に出席しました。そこで友人のパム先生と久しぶりにお会いしました。 以前、彼女は、こんな詩を紹介してくださいました。
キリストには体がない、キリストの体とはあなた自身だ キリストには手足がない、しかしその手足とはあなたの手足だ そのお方はあなたの目を通して、この世界を憐れみをもってご覧になる そのお方はあなたの足をもって、良き働きのために歩いていかれる そのお方はあなたの手をもって、世界の全ての人々を祝福される あなたの手こそがキリストの手 あなたの足こそ、キリストの足 あなたの目こそ、キリストの目 あなたの体こそ、キリストの体
この詩を通し、キリストというお方が、私たちの目を通して、この世界を憐れみをもってご覧になるお方だ、ということを知らされます。 私たちは、聖書の御言葉に耳を傾けることを通して、日々、このキリストの心を私たちの心とすることを学ばせていただきたいですね。 ある時、イエスさまは、ご自分のあとに従ってきた弟子たちに対し、そしてまた、たいして訳も分からずに集まってきた群衆に対して「山上の説教」と呼ばれる一連の教えを説かれました。その説教の最初の言葉が、「幸いである」という言葉でした。そして、何が幸いか、と言えば、「心の貧しい人」であり、「悲しむ人」であり、「柔和な人」であり、「義に飢え渇く人」であり、「憐れみ深い人」である。つまり、この世の価値基準からすれば、必ずしも「幸せ」と思えないような状況の中にも、実は神さまが幸いと祝福を準備しておられるということです。 イエスさまは私たちが見るのとはまったく違った視点を持って物事を、いや私たち一人ひとりを、その人生をご覧になっておられるということを説き始められたのです。ですから、クリスチャン生活というのは、ある意味で、この「別の見方」を教えていただくプロセスです。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘
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