憐れに思う神
「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。」(ルカ7:13)
「憐れに思う」という言葉は、ギリシャ語で「はらわたが痛む」ほどの「激しい心の動き」をさす言葉です。しかも、福音書では、イエスさまや神さまにしか使われていない言葉(動詞)です。 この「憐れに思う」という言葉をさらに調べていきますと、たいへん興味深いことがあります。ギリシャ語を使う当のギリシャの人々は、この激しく心が動く、同情を表す言葉を自分たちギリシャの神々に当てはめて使うことをしなかったそうです。 ギリシャの考えによれば、心を動かされるような神さまは神の名に値しないと考えたからです。本当の神は、どっしりとしたお方であり、偉大なる神々は人間の悲しみや喜びに振り回されるような存在ではない、といった理由からでした。 でも私は思います。仮に神がそのような存在ならば、私たちは問題を抱えて祈ることもできないのではないでしょうか。祈りは空しい「独り言」に過ぎないものになってしまいます。 ところが、福音書記者ルカは、イエス・キリストの神さまは、私たちを御覧になるだけではなく「憐れに思う方」であるということをはっきりと伝えたのです。 旧約聖書にも繰り返し、神さまがイスラエルの民をご覧になって憐れに思われたことが記されていますし、背く民に心を痛め、立ち返るようにと繰り返し追い求める神さまの姿が証しされています。 主イエスさまは、この聖書の神さまです。ギリシャの神々のように、人間の状況に左右されないのではなくて、あなたの苦しみや悲しみ、罪の重荷に耐えかねているような状態を、憐れみをもってご覧になり、心を動かし、はらわたがかき回されるほどに心を痛めるお方なのです。 このお方が私たちの神であることは、何と幸いなことでしょうか!
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘
ご感想は下まで(スマホ・パソコンの方向けです) forms.gle/j3zkw1Rccd6Y1bSg6
発行者名:高座教会 連絡先:info@koza-church.jp 住所:大和市南林間2−14−1
「憐れに思う」という言葉は、ギリシャ語で「はらわたが痛む」ほどの「激しい心の動き」をさす言葉です。しかも、福音書では、イエスさまや神さまにしか使われていない言葉(動詞)です。 この「憐れに思う」という言葉をさらに調べていきますと、たいへん興味深いことがあります。ギリシャ語を使う当のギリシャの人々は、この激しく心が動く、同情を表す言葉を自分たちギリシャの神々に当てはめて使うことをしなかったそうです。 ギリシャの考えによれば、心を動かされるような神さまは神の名に値しないと考えたからです。本当の神は、どっしりとしたお方であり、偉大なる神々は人間の悲しみや喜びに振り回されるような存在ではない、といった理由からでした。 でも私は思います。仮に神がそのような存在ならば、私たちは問題を抱えて祈ることもできないのではないでしょうか。祈りは空しい「独り言」に過ぎないものになってしまいます。 ところが、福音書記者ルカは、イエス・キリストの神さまは、私たちを御覧になるだけではなく「憐れに思う方」であるということをはっきりと伝えたのです。 旧約聖書にも繰り返し、神さまがイスラエルの民をご覧になって憐れに思われたことが記されていますし、背く民に心を痛め、立ち返るようにと繰り返し追い求める神さまの姿が証しされています。 主イエスさまは、この聖書の神さまです。ギリシャの神々のように、人間の状況に左右されないのではなくて、あなたの苦しみや悲しみ、罪の重荷に耐えかねているような状態を、憐れみをもってご覧になり、心を動かし、はらわたがかき回されるほどに心を痛めるお方なのです。 このお方が私たちの神であることは、何と幸いなことでしょうか!
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘
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