アイデンティティと暴力

「イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、彼らの目の前でイエスの姿が変わり、衣は真っ白に輝いた。」 (マルコによる福音書9章2-3節)
 私は夫です。妻がいてくれるから夫でいられます。そして父です。子がいてくれるので父となれます。さらに男であり、日本国民であり、神を信じるクリスチャンです。そのように人はさまざまなアイデンティティが織りなされて一人の人格が形成されているのです。アマルティア・センという人が『アイデンティティと暴力』という本の中で、アイデンティティは単一で固定的なものではなく、さまざまに織りなされた中から選択できるもので、自分の中の一つのアイデンティティを強く強調してしまうと他者との間に摩擦を生み暴力となりうると記していました。つまり「男」であることを強く主張すると女性との間で摩擦を生み、「日本人」であることを主張しすぎると他国の人との摩擦を生みやすいというのです。 イエスさまは100%「神」であり100%「人」です。イエスさまは人として三人の弟子を山に連れて行きました。山に登ると三人の目の前でイエスさまの姿が変わり、衣は真っ白に輝きました。そしてさらにエリヤがモーセと共に現れて、イエス様と語り合っていました。 非情に恐れていた三人を雲が覆い、その雲の中から声がした。「これは私の愛する子。これに聞け。」と神の性質(神性)がはっきりと示されました。その後、「イエスだけが彼らと一緒におられた」といって、再びいつもの人としてのイエスさまがあるのです。イエスさまは人であるから、私たちの悲しみや苦しみを知ってくださり、人の罪を背負って十字架の贖いという犠牲を負ってくださいました。そして、神として、今も生きて私たちの為に祈り終わりの日に再び来てくださいます。 イエスさまと同じように、私たち人間もいくつかのアイデンティティが織りなされて一つの人格があるのです。その中のいくつかのアイデンティティは、周りの人たちや遠くに住む人たちとも重なるアイデンティティがあるはずです。そこに理解が生まれ、キリストの平和を作ることができるのです。「キリストは、ご自分において二つのものを一人の新しい人に造り変えて、平和をもたらしてくださいました。」(エフェソの手紙2:15)
《祈り》神さま、意見の違うあの人と私は生きる世界が違うと思っていました。しかし、同じものを愛し同じ場所を大切にしている部分を知りました。何か響き合うものがあるのです。そこに目を向けることができますようにしてください。
牧師 和田一郎
発行者名 高座教会 www.koza-church.jp/