私のために祈ってください
「私のために祈ってください。私はこの福音のための使者として鎖につながれていますが、どうか語るべきときに、私が堂々と語ることができるように祈ってください。」 (エフェソへの信徒への手紙6章19-20節)
我が家の長男が産まれる時、わたしの妻は里帰り出産で四日市の実家に帰りました。その時は7週間ほど教会に行けなかったのです。ほとんど家にこもりっきりで育児をしていたので聖書もほとんど開けなかったのです。妻は小学校の頃から教会に通い、成人してからは宣教師や高校生伝道の働きなどをしていた人ですが、7週間も教会に行かないと落ち着かなくなってしまったのです。そんなある日、友人の夫婦が家にお見舞いに来てくれました。そして、子どもを授かった恵みに感謝して「一緒に祈りましょう」と言ってくれて互いに祈ったそうです。妻はそれが本当に良かった、励まされたと言っていました。 もし、みなさんの知人で教会から離れている人や困難の中にある人がいましたら、一緒に祈ってあげて欲しいと思いました。もしその人が祈れなかったら「祈っていい?」と言って祈ってあげて欲しいと思いました。二人または三人が祈るところには、神さまがその中にいてくださるからです。(マタイ福音書18:20) パウロはエフェソ教会の会衆に対して「私のために祈ってください。」と書き送りました。パウロは祈る人でありました。絶えず誰かのために祈り続けていた人です。そのパウロが自分のために祈ってほしいと手紙に書きました。 祈られることの必要性は誰にでもあります。とくに重たい課題や問題、悩みを背負っている人たちにとって、誰かに祈ってもらうことは大切です。どんなに祈りに信仰熱心な人であっても、時には祈れなくなってしまうことがあるものです。祈る言葉を見失うような経験をするのです。心の疲れ、動揺、不安、恐れのあまりに祈る力を失うのです。祈りは、ただみずから祈ることだけではなく、誰かに祈ってもらえることも、また大切なあなたの祈りなのです。
《祈り》主よ、私たちは生まれた時から、自分のことは自分でできるようにと教えられます。自立することを求められています。しかし私は今、祈る気力がありません。我が主イエスさま、私のために祈ってください。
牧師 和田一郎
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発行者名 高座教会 www.koza-church.jp/
我が家の長男が産まれる時、わたしの妻は里帰り出産で四日市の実家に帰りました。その時は7週間ほど教会に行けなかったのです。ほとんど家にこもりっきりで育児をしていたので聖書もほとんど開けなかったのです。妻は小学校の頃から教会に通い、成人してからは宣教師や高校生伝道の働きなどをしていた人ですが、7週間も教会に行かないと落ち着かなくなってしまったのです。そんなある日、友人の夫婦が家にお見舞いに来てくれました。そして、子どもを授かった恵みに感謝して「一緒に祈りましょう」と言ってくれて互いに祈ったそうです。妻はそれが本当に良かった、励まされたと言っていました。 もし、みなさんの知人で教会から離れている人や困難の中にある人がいましたら、一緒に祈ってあげて欲しいと思いました。もしその人が祈れなかったら「祈っていい?」と言って祈ってあげて欲しいと思いました。二人または三人が祈るところには、神さまがその中にいてくださるからです。(マタイ福音書18:20) パウロはエフェソ教会の会衆に対して「私のために祈ってください。」と書き送りました。パウロは祈る人でありました。絶えず誰かのために祈り続けていた人です。そのパウロが自分のために祈ってほしいと手紙に書きました。 祈られることの必要性は誰にでもあります。とくに重たい課題や問題、悩みを背負っている人たちにとって、誰かに祈ってもらうことは大切です。どんなに祈りに信仰熱心な人であっても、時には祈れなくなってしまうことがあるものです。祈る言葉を見失うような経験をするのです。心の疲れ、動揺、不安、恐れのあまりに祈る力を失うのです。祈りは、ただみずから祈ることだけではなく、誰かに祈ってもらえることも、また大切なあなたの祈りなのです。
《祈り》主よ、私たちは生まれた時から、自分のことは自分でできるようにと教えられます。自立することを求められています。しかし私は今、祈る気力がありません。我が主イエスさま、私のために祈ってください。
牧師 和田一郎
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