ああ無情

「神は愛です。愛の内にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」 (ヨハネの手紙一4章16節)
 映画「レ・ミゼラブル」を見ました。ファンティーヌという女性は幼い娘コゼットをもつシングルマザーでした。彼女の相手の男は逃げてしまい、幼い娘を抱えながら働かなくてはいけませんでした。たまたま出会った宿屋の夫婦に娘を預けて、遠くの町で女工として働きにいきます。しかし、その宿屋夫婦はあくどい商売をしていて娘は下働きで働かされてしまいます。ファンティーヌは工場で働きますが、当時のフランスではシングルマザーというだけで差別されていたので、娘がいることを隠して働きました。しかし宿屋からお金の請求の手紙を他の女工に見られ、工場長に告げ口されて、工場をクビになって外に放り出されてしまいます。宿屋からの手紙には「子どもが病気で死にそうだから金を送れ」とありフォンティーヌは、あてもなく身の回りのものを売り、自分の髪の毛や歯までも売り、それでもお金が足りず、ついには娼婦に身を落とし、愛するコゼットを思いながら病気で息を引き取ります。 日本ではこの物語を小説「ああ無情」という題で紹介されました。パンを一つ盗んだだけで19年間牢獄に入れられたジャン・ヴァルジャンや、娘のために働き尽くして死にゆくファンティーヌなど、登場人物の理不尽な人生を表して「ああ無情」としたのでしょう。しかし、人生は果敢なく虚しいだけで終わるように見えても神さまは働かれていると、この物語は伝えているように思います。ファンティーヌが死んだ後、コゼットを引き取り育てたジャン・ヴァルジャンは死の直前に「誰かを愛することは、神様のおそばにいることだ」と言って天国に迎えられるシーンで終わります。ジャン・ヴァルジャンも、ファンティーヌも、コゼットという愛し愛される存在が人生にありました。遠く離れていても、天と地とに離れてしまっても人は愛することができるし愛されることができる。それは神の内にとどまる者の幸いです。愛の内にとどまる人は決して無情ではない、神がその人の内にとどまってくださいます。
《祈り》主よ、私は失われた羊のようにさまよっています。私の魂は疲れ果てています。それでも愛である主よ、この人生において私も何者かに愛され、何者かを愛することが赦されている。今はそばにいなくても心の中で生きています。それは、あなたの赦し、あなたの愛です。あなたの愛に留まらせてください。
牧師 和田一郎
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