ゴールデンルール(黄金律)
「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」 (マタイによる福音書7章12節)
「最高の治療薬は “笑い"だよ。」 映画「パッチ・アダムス」の主人公パッチは言う。 医学生一年のパッチは、まだ病院での臨床実習を許されていませんでした。笑いやユーモアが免疫力を高めると信じて、患者たちを励ましに、教授の目を盗んで病院に通いました。規則を重んじる学長にとってパッチは疎ましい存在です。学長に呼び出されて「君は頭の良い人間の典型で、自分はルールに従わなくてもいいと思っている。」と厳しく注意されると、パッチは「黄金律はすべての人に当てはまると思います」と答えました。 つまり聖書の言葉を引き合いにだして、学内のルールではなく、イエス・キリストが教えたゴールデンルール(黄金律)は守っていると答えたのです。イエスさまの教えは簡単に言えば「思いやり」です。イエスさまが過ごした時代のユダヤには律法という宗教上のルールがたくさんありました。たくさんあり過ぎて生活を苦しめるほどでした。ですから、イエスさまは「先生、律法の中で、どの戒めが最も重要でしょうか。」と聞かれた時も「神を愛しなさい、それと隣人を自分のように愛しなさい。すべての律法がこの二つにかかっているのだ。」と教えました。 パッチは医科大学の細かいルールは破っていたのですが、かつて自分が病気で患者だった時にしてほしかったことを自分はやるという黄金律を、笑いを通して実践したのです。 マタイ7章12節が「黄金律」と呼ばれるのは、世界中の宗教や教訓に通じる普遍的な教えであるからです。しかし、イエスさまのこの言葉は、ただ単に善意の基本を教えているのとは違います。自分が何かで困っている時、周りの人たちが自分が本当に願っていることをしてくれない現実がよくあります。 それは常識的にできないことも含まれています。たとえば敵対している人だけれども、その人にしかしてもらえないことがあるとします。しかし敵対している相手には期待できないのです。しかし、聖書には「してもらいたいと思うことは "何でも"」とあるのです。「右の頬を打たれたら左の頬を向けなさい」「汝の敵を愛せよ」という文脈の中で語られていることに注目しなければいけません。 ですから人がしてくれるか、してくれないかは関係ないのです。常識的にはしてもらえない助けでも、自分は人に与えていくことを教えているのです。
《祈り》神よ、主のしもべに力を与えてください。じつは私には愛せない人がいるのです。しかし、あなたは人を分け隔てなく造られましたから、あたなの力を支えとして自分がしてもらいたいと思うことを、分け隔てしないですることができますように。
牧師 和田一郎
ご感想は下まで(スマホ・パソコンの方向けです) forms.gle/EkE9N8gDaJQ7ee2L9
発行者名 高座教会 www.koza-church.jp/
「最高の治療薬は “笑い"だよ。」 映画「パッチ・アダムス」の主人公パッチは言う。 医学生一年のパッチは、まだ病院での臨床実習を許されていませんでした。笑いやユーモアが免疫力を高めると信じて、患者たちを励ましに、教授の目を盗んで病院に通いました。規則を重んじる学長にとってパッチは疎ましい存在です。学長に呼び出されて「君は頭の良い人間の典型で、自分はルールに従わなくてもいいと思っている。」と厳しく注意されると、パッチは「黄金律はすべての人に当てはまると思います」と答えました。 つまり聖書の言葉を引き合いにだして、学内のルールではなく、イエス・キリストが教えたゴールデンルール(黄金律)は守っていると答えたのです。イエスさまの教えは簡単に言えば「思いやり」です。イエスさまが過ごした時代のユダヤには律法という宗教上のルールがたくさんありました。たくさんあり過ぎて生活を苦しめるほどでした。ですから、イエスさまは「先生、律法の中で、どの戒めが最も重要でしょうか。」と聞かれた時も「神を愛しなさい、それと隣人を自分のように愛しなさい。すべての律法がこの二つにかかっているのだ。」と教えました。 パッチは医科大学の細かいルールは破っていたのですが、かつて自分が病気で患者だった時にしてほしかったことを自分はやるという黄金律を、笑いを通して実践したのです。 マタイ7章12節が「黄金律」と呼ばれるのは、世界中の宗教や教訓に通じる普遍的な教えであるからです。しかし、イエスさまのこの言葉は、ただ単に善意の基本を教えているのとは違います。自分が何かで困っている時、周りの人たちが自分が本当に願っていることをしてくれない現実がよくあります。 それは常識的にできないことも含まれています。たとえば敵対している人だけれども、その人にしかしてもらえないことがあるとします。しかし敵対している相手には期待できないのです。しかし、聖書には「してもらいたいと思うことは "何でも"」とあるのです。「右の頬を打たれたら左の頬を向けなさい」「汝の敵を愛せよ」という文脈の中で語られていることに注目しなければいけません。 ですから人がしてくれるか、してくれないかは関係ないのです。常識的にはしてもらえない助けでも、自分は人に与えていくことを教えているのです。
《祈り》神よ、主のしもべに力を与えてください。じつは私には愛せない人がいるのです。しかし、あなたは人を分け隔てなく造られましたから、あたなの力を支えとして自分がしてもらいたいと思うことを、分け隔てしないですることができますように。
牧師 和田一郎
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