キリストは動物の命を大切にしないのか?
「汚れた霊どもはイエスに、『豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ』と願った。イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れは、崖を下って湖になだれ込み、湖の中で溺れ死んだ。豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。」 (マルコによる福音書5章12-14節)
イエスさまは、二千匹もの豚の命を溺れ死なせました。この箇所を読むと「なぜ豚が犠牲にならなければならなかったのか」「イエスさまは動物の命を大切にしないのか?」そんな疑問が湧いてくるのです。実際、キリスト教は決して「動物などどうでもよい」とは教えていません。聖書は、すべての生き物は神によって造られた被造物であると語ります。神は空の鳥を養い、野の花を装われる方です。動物もまた、神の愛の中に生きています。 数年前、教皇フランシスコは回勅『ラウダート・シ』の中で、動物たちに対する残虐な行為は「人間の品位に反する」と語りました。動物を乱暴に扱うことは、人間自身の魂をも傷つけるというのです。では、この豚の出来事をどう考えればよいのでしょうか。 この物語の中心は、「豚」ではなく、「苦しみの中にいた一人の人間」です。その人は長い間、汚れた霊に支配され、墓場をさまよい、自分を傷つけ、社会から切り離されて生きていました。誰も彼を救えませんでした。しかしイエスさまは、その人を見捨てなかったのです。二千匹の豚の喪失は、確かに小さな出来事ではありません。豚の飼い主たちにとっては大きな経済的損失でした。 しかし、それほど、一人の人間の回復が、重い意味を持つことをイエスさまは示しているのです。人々から見放されていた一人を、神の子として取り戻されたのです。同時にこの話は、「悪の力」の恐ろしさも示しています。悪の霊とは、命を壊し、共同体を壊し、自然さえも破壊へと向かわせる力なのです。この話でイエスさまは、動物の命を軽く扱ったのではなく、むしろ、悪がどれほど世界を壊しているか、そしてキリストが、いかに一人の命を深く思い、救おうとしているのかを明確にしているのです。
《祈り》主よ。あなたは、周囲の人から見放された一人の苦しみを見捨てませんでした。 一人の命を大切にし、悪が人の心や世界を壊していく恐ろしさに立ち向かいました。 傷つき、孤独の中にいる人に、キリストの光と希望を届けることができますように。
牧師 和田一郎
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発行者名 高座教会 www.koza-church.jp/
イエスさまは、二千匹もの豚の命を溺れ死なせました。この箇所を読むと「なぜ豚が犠牲にならなければならなかったのか」「イエスさまは動物の命を大切にしないのか?」そんな疑問が湧いてくるのです。実際、キリスト教は決して「動物などどうでもよい」とは教えていません。聖書は、すべての生き物は神によって造られた被造物であると語ります。神は空の鳥を養い、野の花を装われる方です。動物もまた、神の愛の中に生きています。 数年前、教皇フランシスコは回勅『ラウダート・シ』の中で、動物たちに対する残虐な行為は「人間の品位に反する」と語りました。動物を乱暴に扱うことは、人間自身の魂をも傷つけるというのです。では、この豚の出来事をどう考えればよいのでしょうか。 この物語の中心は、「豚」ではなく、「苦しみの中にいた一人の人間」です。その人は長い間、汚れた霊に支配され、墓場をさまよい、自分を傷つけ、社会から切り離されて生きていました。誰も彼を救えませんでした。しかしイエスさまは、その人を見捨てなかったのです。二千匹の豚の喪失は、確かに小さな出来事ではありません。豚の飼い主たちにとっては大きな経済的損失でした。 しかし、それほど、一人の人間の回復が、重い意味を持つことをイエスさまは示しているのです。人々から見放されていた一人を、神の子として取り戻されたのです。同時にこの話は、「悪の力」の恐ろしさも示しています。悪の霊とは、命を壊し、共同体を壊し、自然さえも破壊へと向かわせる力なのです。この話でイエスさまは、動物の命を軽く扱ったのではなく、むしろ、悪がどれほど世界を壊しているか、そしてキリストが、いかに一人の命を深く思い、救おうとしているのかを明確にしているのです。
《祈り》主よ。あなたは、周囲の人から見放された一人の苦しみを見捨てませんでした。 一人の命を大切にし、悪が人の心や世界を壊していく恐ろしさに立ち向かいました。 傷つき、孤独の中にいる人に、キリストの光と希望を届けることができますように。
牧師 和田一郎
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