キリストを知る者の生き方
「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」(ガラテヤ5:13)
ある教会にディビッドという名の貧しい少年がいました。その教会に集う大人たちは、着飾った紳士淑女たちが多く、粗末な服しかもっていないディビッド少年は、礼拝に出席するといつも気が引ける思いをしていました。
でも、彼はイエスさまを信じていましたし、イエスさまが大好きで、牧師の説教を聴くことが楽しみで礼拝に来ていました。ある日のこと、献金の時になり、献金皿を持った執事が会衆席を回ってきました。
すると彼は、奉仕の人におずおずとその献金皿を床の上に置いてくれるように頼み、何とその皿の上に乗ってしまったのです。そして、「神さま、僕にはお金がありません。でも僕自身をあなたにお献げします」と小さな声で祈ったそうです。
実は、この彼こそ、後にアフリカ伝道に命を献げた医療宣教師リヴィングストンだったのです。
十字架から3日の後、イエスさまは、恐れおののいていた弟子たちのところに、「シャローム、平和があるように」と言って、御自身を現してくださいました。ところが、その時、12弟子のひとり、ディドモと呼ばれるトマスはそこにいませんでした。
仲間の皆が「自分たちは復活の主にお会いした。主はよみがえられた」と喜ぶ中で、トマスはひとり、取り残されるような思いをしました。そして1週間が経ちました。十字架の後の2回目の日曜日に、復活の主は、トマスを含む弟子たちに、再び姿を現してくださったのです。
これから後、歴史の教会は、日曜日ごとに姿を現してくださる復活の主とお会いするために集うようになったのです。ですから日曜日は特別なのです。
主の日の礼拝を大切にしていきましょう。神さまが「わたしの子を去らせてわたしに仕えさせよ」とモーセに命じられた今日の御言葉は、キリストの十字架をもって救いへと導かれた私たちは、礼拝の民として生きるものとされたのだということなのです。
そのことを、今朝、もう一度覚え、この年、礼拝を守ることをさらに大切にしていきたいと思います。全てを捧げて私たちを贖い出してくださった神さまへの献身のしるしとして、このように主の日ごとに礼拝に集い、主への献身の思いを新たにしていきたいと願います。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘