御言葉の光

「灯をともして、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、明るみに出ないものはない。」(ルカ8:16−17)
 小さい頃から、経験的に、あるいはうすうすですが、隠し事は必ず明らかになることを承知しています。イエスさまは、はっきりと、「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、明るみに出ないものはない」と言われました。真理は最後まで変わることがありませんし、隠されたものも必ず、いつかは神さまの前に明らかにされるものです。 隠されたものが明らかにされるということは、言い換えれば、それは神さまが本当にいらっしゃることの証拠です。 今日の聖句によればイエスさまは御言葉の真理を「灯」、つまり「光」に譬えられました。 夜、帰宅した時、カーテンを引かずに居ると、外から家の中が全て見えてしまうことがあります。中に居る家族は外が暗くて見えないものですから、自分たちのところも見えないだろうと錯覚することもあります。 物が見えるということは、私たちの目が良いからではなく、そこに光が当たって反射するので見えるのです。つまり見るにはどうしても光が必要なのです。 この世界は、目に見えるものを大切にする世界です。でも、全ての物の本質は、それをお造りになった神さまの光に照らされて初めて見え、理解できるものなのです。 ですから、どんなに素晴らしいものがあったとしても御言葉の光なしには、その本質を見極めることなど、私たちにはできないことでしょう。 人間関係でもそうです。あなた自身の「視力」を頼りにして見るのではなく、御言葉の光の下に、つまり神さまがその人をどのように見ているかという光を基準に見ることが大切です。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘
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